「森田、あんたそんな露骨に疲れた顔止めてよ。こっちまで疲れてくるわ」
「だって……」
窓から見上げる空は重い。
どんよりとした雲から、重さに耐え切れなくなった水がぽたぽたとただひたすら雫を垂らす。
「この天気、嫌にもなるっすよ……」




あ し た 、 て ん き に  、 な あ れ





「ちょっと先生、どうにかしてよこの使えない部下。馬鹿が治る薬とか、解剖して阿呆なところ取り除くとか、何でもいいわ、もっと使える奴になってくれるなら」
ため息と同時に、愚痴が口からこぼれていく。
顕微鏡を覗き検査薬をかけてと慌しい杉祐里子の斜め後ろ、やってきて間も無い月山紀子は休むということを知らない。
彼女が今日ここにやって来た理由は至極単純で、捜査資料として使いたい物品に関してさっさと結果が欲しいから、とただそれだけだった。
あまりの強引さに呆れて言葉を失くしかけていた杉にとにかく押し付け、「お願い。科捜の奴らと鑑識にだけは回したくないの。重要な証拠なのよ」と必死に頼み込まれては、断るに断れず(どうせこんな状態の月山を断ることなど出来ないと思ったというほうが正しいが)結局今に至る。
「月山さあん……」と隣で棒立ちだった森田が申し訳無さそうに名を呼んでも、呆れた表情が晴れることは無い。
検査を続けながらも、その様子をありありと想像して杉は思わず顔を緩める。
「あるわけないでしょう、そんなもの」
「もう先生方、頑張ってよ。医学が早いとこ発達してくれること必死に祈ってるから」
「祈る前に、是非とも人の仕事中に急ぎの検査なんて強引に持ち込むのは止めて欲しいわね」
「分かった。それについては、今度までに考えておくから」
眉をひそめ彼女は部下を思いっきり睨みつける。
「ひどいっす……」と彼が小さく嘆いた声は、全く意味をなさずに辺りへと消えていった。
ここに来てからの月山の話を総合すると。
杉は改めて思い返す。
今朝早くから彼女達はとある事件の捜査にあたっていたらしい。
その場を仕切る彼女の上司とやらが、また虫の好かない奴だそうで(月山と馬の合う上司のほうが珍しいだろうと聞きながら彼女は思ったものだ)そいつが鑑識やら科捜研を総動員して手柄を上げる前に何としてでも自分が逮捕してしまいたいらしい。
(警察内部で争っても仕方が無いだろうと思うのだが、こう熱い月山紀子に何を言っても無駄だということは、付き合い上嫌というほど分かっている)
しかし張り切る月山とは逆に、どうやら森田が何度も些細なミスを犯したらしく、それに彼女は苛立っているようだった。
いつも使えない奴だけど、まさかここまでだとは思わなかった、と最後に厳しい言葉で彼女は締めた。
「でも月山、仕方が無いのよ」
一通りやるべきことを終えた杉は顔を上げ、彼女の方へ向き直る。
直後、「え?」と自分の考えを全否定された不快感が、手に取るほど分かる返事が返ってきた。
「雨が降ると、副交感神経が活発になるから、体の動きが抑制されるの。よく言うでしょう、晴れの日は気持ちが軽いけど、雨の日はどうも調子が悪い———やる気が出なかったり、だるかったりするのもそのせいと言えなくも無いわね」
「なんだ、ほらぁ」途端に森田はほっとした様子を見せる。
「もっとも、それをコントロールできるように心がけることが大切だけど」
「……はあ」
えばったり、落ち込んだり、杉の一言一言で森田の一喜一憂する具合は面白い。
「ちょっと。それじゃこいつ、梅雨あけるまでこの状態続くってこと?」
全く納得のいかない様子の月山には、「さあね。それは彼次第」と適当な返事を。
ポケットに手を突っ込み、煙草を探す。
そういえば。
天野がこの間煙草の数を減らしたほうが良いと言っていたっけ、と記憶を思い返す。
同時にふと初めて自分にそれを勧めた男の顔も頭を一瞬霞めた。相変わらず、忘れそうでいて忘れさせてくれないその男。
「冗っ談じゃないわよ」という月山の声で我に返り、思わず彼女のほうに顔を向ける。
「森田、ほら」
と月山は隣の森田に、手のひらを差し出す。
「はい?」
「手帳、警察手帳貸して」
「手帳……俺のですか?」
「あんたの以外に誰のがあるのよ」
「えっと……俺のならここにちゃんとありますけど」
「早く」
はいどうぞ、と差し出しそれをしっかりと受け取ると、一通り眺めた後、月山はそれを自分のスーツの内ポケットへと仕舞った。
「……月山さん?」
当然戻ってくるものだろうと、差し出した手は空しいくらいに行き場所が無い。
「安心しなさい。あたしが責任を持ってこれは返還しておくから。課長に頼んで使えそうな新人2人くらい補給してもらおうかしらね。あんたと違って」
「ちょ、ちょっと月山さん! 返してくださいよ!!」
「自業自得でしょ」
「俺、一生懸命頑張りますから! もうあんなミスしないですから! 三度目の正直って言うじゃないスか!」
「さあどうかしらね。二度あることは三度あるって言うのよ」
「先生ぇ……」
助けを懇願する、その痛いほどの視線を無視することなどなかなか出来ずに、
「月山、止めなさいよ。そういうくだらないことは」
結局止めてしまうのだ。
どこかの誰かに負けず劣らず、自分もお節介焼きかもしれない、と彼女は思いながら。
「くだらないって……だってどうすんのよ、こんな魂抜けたような奴、どうしようも無いわよ。大体……副交感神経だか運動神経?だか知らないけど、そんな目に見えないもの、あたしは信じないの」
部下を思いっきり睨んで、彼女ははっきりと断言する。
「……だから病院と銀行は嫌いって言ってるでしょ」と最後には付け加えて。
病院は先生という絶対的な存在が頼るしか能の無い患者という弱い立場のものに、ひたすら難しい単語と御託を並べ、わけの分からないところで話が進んでいく。銀行は貯金だの預金だのといった数字とデータ、つまりここには無いもので取引を進めていく。
だから嫌いなのだ、と彼女は思う。
相変わらずとして機嫌の悪い、そんな様子を第三者の立場として眺めていた杉は、ふと改めて思いついたように漏らした。
「そうね。神経なんて関係無いわ。きっと、月山の場合は」
「ん? ……何よ、いやに賛成してくれるじゃない先生。どういう風の吹き回し?」
犬猿の仲とまで評される自分たちの意見が、一致することなど可笑しいというように。
いや、何にでも疑り深くなるのは、刑事という特殊な職業柄かもしれない。
それとも、決して素直とはいえないその女が、自分に合わせてきたなど、まず何か裏があるに違いないと察したというほうが正しいか。
思わず、少しばかり顔を緩ませて聞き返してしまうのは。
「さっき、副交感神経って言ったでしょう。興奮すると、体の機能が抑制される。逆に、交感神経の方が興奮すると、体の機能が促進されるの」
「体の機能が促進?」
ほらきた。これだから医者という人間は。
わけの分からない言葉を並べてそこまで優越感にでも浸りたいか。
「呼吸が速くなったり、血圧が上がったりね」
「あー」
その説明を聞いて、心当たりがあるように、まず彼がにんまりとする。
「それだけ四六時中捜査に情熱を傾ける月山刑事は、きっと相当交感神経の方が発達してるんでしょうね。研究者としては非常に興味があるわ」
「月山さんはもう少し抑制されたほうがいいよなぁ。いつも梅雨くらいの方がいいっすね」
口元をかすかに上げる杉と、心底納得顔の森田に、月山は、
「うるっさいわね、あんたたち」
と、とりあえずしかめ面を見せて、それでもまだへらへらとした表情の消えない森田に、「いつまで笑ってんのよ」と軽く一発。
「あー嫌になるわね、このジメジメした空気。梅雨なんて早く終わればいいのに」
こから見上げる空を覆う雲はどこまでも重く、その先に青い空が広がっているのかも疑うほど。
月山に倣うように、思わず杉と森田も外に視線が行った。
窓ガラスを濡らす水滴は、上から下へと絶え間なく流れ続け、いくつもの跡を残していく。
ぽた、ぽた、という不規則な音がたまに聞こえる。
静かだった。
あまりに、静かだった。
すっかりとやるべき仕事も忘れ、雨の滴り落ちる様子を眺めていた3人だが、コンコンと、ドアを叩く音で一斉に視線を入り口へと向けた。
「お邪魔します……あっ、月山さん。それに森田さんも」
「どうもっす」
そこに立っていたのは、天野である。
意外な人を見つけたと少し驚いていた彼女だが、その状況を察するとすぐ、
「また何か大変な事でも起きたんですか」
と月山の方へ声をかける。この雨の中、予想外の人に会えた高揚感からか、どことなく声が弾む。
そこで、「監察医が事件来るの喜んでどうするの」とそれを敏感に捉えるのが杉である。
「喜んでませんよ、別に。ただ月山さんが先生のところ来てるってことは、もしかしたら凄く大変なことがあったんじゃないのかなって……」
「ん、天野それ、手に持ってるの」
反論の言葉も言い終わらないうちに、月山はいつもの彼女とは明らかに違う、それに気が付いた。
「……あっ、これですか?」
改めて思い出したというように、天野は自分の手元に目を向ける。
手の中にすっぽりと埋まる、小さく色とりどりの花をつけたそれは———
「紫陽花です。医務院の近くにいっぱい咲いてて。あまりに綺麗だったから、ひとつ持ってきました」
雨をたくさん浴びたのだろう、ところどころについた細かな水滴が花にも葉にもみずみずしい潤いを与え、その花をより美しく見せる。
「へー、紫陽花か……そうか、梅雨って、紫陽花の季節か……」
「なんですか月山さん。また妙に改まった言い方しますね」
「いやだって。そういえば、あんまり見かけないじゃない」
「そうっすかね。気づいていないだけじゃないですか」
同じ職場で働く森田にそう言われてしまうと、と月山は思う。
梅雨といえば、雨ばかりに思いを馳せ、すっかり他のものに目がいっていなかったのかもしれない。
これが、杉祐里子のいうやる気が出ないということなのだろうか。
「花瓶ならそこ」
と、端的に伝える杉に、はい、と天野は頷いて、
「雨の日、続きますね。明日は、晴れると良いのだけど」
空になっていた花瓶に花を添えながら、誰に言うでもなくそう口にする。
この花を見ると、梅雨というものも、降り続く雨も、少しは良いものだと思えるかもしれない。
通勤途中、途中で遭った黒川と田所と一緒に傘を差しながら紫陽花の花を眺めて、彼女はそう思ったのだ。 でもそれと同じくらい、雨の降っているときは、青い空を見たくなるとも。
だから。
花瓶に新しい水を注いで、「よしっ」と小さく満足気に頷く。
雨の打ちつける音だけ静かに聞こえる部屋の中で、最後に彼女は小さく小さく、その言葉を発する。



「あした、てんきに、なあれ」




*end*




月に2回更新とか珍しいなぁ。更新停止中なんですけど一応。笑
交感神経と副交感神経の話を授業で習ったので、何だか使えそうだと思っていたら意外とすんなり書く事はできて、最終的にこういう形に落ち着きました。
本当はもっと短くなるはずだったのに、書けば書くほど会話が増えてしまうのはどういうことだろう。笑
おかげでかなり削りました。会話が増えるとキモさもより際立ちます(^^;)
最初に会話文を全て書いてから地の文を書いたからか、妙にくどいなぁ……

2006.05.23



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