彼岸花の向こうには、一体何があるのだろう。



そこには、本当に天国などあるのだろうか。





彼 岸  の 向 こ う






私は、医者だ。
でも、普通の医者でないことは、多分一目瞭然だと思う。
私の見る患者は、助かることなど二度とない。
最初から死んでいるのであって、普通の医者のように、命を救うことなどはできないから。
ただ、その死因を突き止め、そして遺族に知らせる。
私の仕事は、ただそれだけ。
知らせたからと言って喜ばれるわけでもない、何かが生まれるわけでもない。
ただ、真実が分かるというだけ。

「すみません。わざわざお連れしてしまって・・・」

「いえ・・・」

墓前で静かに手を合わせていた婦人は、顔もあげずにそう言った。
今あげたばかりのお線香が、やわらかに香る。
仕事上で会った人と、それも全てを伝え終わった人ともう一度会うということは、珍しいことだ。
真実を伝えたところで納得する人は多くないし、「それを知ったところであの人は帰ってこない」と泣きながら言われることも多い。
一種の恨みを買っている職業だと思う。
恨みを買うだけかって、ますます遺族を悲しませて、そして別れるのが監察医という職業なのかもしれない。
出会いも別れも、決していいものではないのだ。

ただ

この婦人との出会いは、まったく違った。
私と彼女との出会いは、一ヶ月前の検案。
私は、彼女の夫の解剖を執刀した。
今でもよく覚えている。
朝から雨のひどい、なんとも憂鬱な日だった。
その日私は、その解剖から分かる事実だけを、彼女に説明した。
今日も、「それを知ったところであの人は帰ってこない」とまた言われるのではないと思いながら。

しかし、そのときの彼女は今までの誰とも違った。

怒ることも、悲しむことも、ましてや憎むこともなく、むしろ微笑んで「そうなの」と一言言い、静かに優しく微笑んだ。
不思議な感じがした。
いや不思議な感じというよりも、自然な感じと言った方が近いかもしれない。
まるで、今受け止めた事実が、当たり前であるというように。
実に自然な笑みを浮かべて、彼女は帰っていった。

「先生、私にはあの人が幸せだったかも分からないし、私があの人にしてしまったことを許されるとも思ってないんですよ。
あ、ほら・・・よく言うじゃないですか、死んだ人に対して『あの人は許してくれてるだろう』って。
でも・・・どうしてかしら。私は、そういうことまったく思わないんです」

相変わらず顔もあげることなく、彼女は言葉を続けた。

「許される・・・とは。何か、罪を犯して・・・」

「あ、そうじゃなくって・・・私、料理苦手なんですよ。あの人、いつも私の作るまずい料理を、必死に食べてくれて・・・ 生活で、色々なこと迷惑かけちゃったから」

そう言って、彼女は墓石に水をかけた。

「あの人、普通に死んでいったんでしょうね。
あ、ほら。ドラマのような物語のある死に方じゃなくて、本当に自然に。
実にあの人らしいわ」

彼女の夫は、横断歩道をただ普通に渡ろうとしていたところ、前方不注意のトラックにひかれたのだ。
その事実を知ったとき、月山は殺人の可能性はないのかと騒ぎ、天野は、そんな簡単な事故じゃあないと思いますと言っていた。
だけど、それ以上の事実などはなかった。
ただ普通に渡ろうとして、ひかれてしまった。
真実は、それだけだった。



「先生、今日はどうもありがとうございました。あの人も、喜んでます」

お墓全体が濡れたところで、彼女は立ち上がり、ようやく私の顔を見てそう言った。
やはり、自然な笑みを浮かべて。

「検案終わった遺族が、お墓参りに付き合って下さい、なんて頼んだりして、本当に迷惑ですよね」

「いえ、そんなことは」

確かに、こんなことは初めてだったけど。

私は少し考えて、それからこう付け加えた。

「私も、会えて嬉しかったですから」

「・・・え?」

彼女が、不思議そうな顔をしていた。



「あなたのご主人に、もう一度会えて嬉しかったですから」



「・・・きっと、あの人も同じことを思っていると思います」

私の言葉を聞いて、彼女はもう一度微笑んだ。







私たちは、必ず死ぬ。

それはどんな形で訪れるか、誰にも分からない。

すべての、この世に生を受けたものの宿命。

でも、それは実に自然なことだ。

生があれば死がある。

有があるなら、必ず無があるように。

この世に、永遠なんて存在しないのだから。







彼女にとって、夫の死はまるで自然そのものであるかのようで。

彼女たちにとっての彼岸花の向こうとは、天国などではなく、日常そのものなのかもしれないと、監察医務院に向かいながら私は思った。





*end*




あとがき



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