「悪いわね、待たせちゃって」 ばたばた、とせわしない靴音に、思わず顔を上げた。 大学の構内へと入る階段を下りて、杉先生が今まさにわたしの前へとやってくる。 思わずコートの袖を少し引っ張って、「いえ、全然平気です。検案記録の確認していたんで、全然」と首を軽く振り、大丈夫だという意を伝える。 本当は、ただぼーっと待っていただけなんだけど。 「へえ……そう。感心感心」 嘘を見抜いたとでも言いたげに、あっさりとしたからかい気味の突き放す言葉はいつも通りだ。 それ以上何も言わず、すぐ、置いていかれそうな速さでさっさと歩き出すのも。 待ってください、と言う代わりに、わたしは小走りにそんな先生の後を追いかける。 検案結果をまとめた資料を先生の元へ持って言って欲しい。 午後最初の検案が終わり、栄子さんや綾小路さんとコーヒー片手につかの間休息を取っていたとき、突然部長に言われた。 「今度来るときじゃ駄目なの?」と栄子さんが尋ねても、「んー、なるべく急ぎで欲しいと言われてなぁ」と頭をかく姿は、見るからに困惑していた。 その後、特に検案予定を入れていなかったわたしは、二つ返事で了解し、そのまますぐに杉先生の勤めている大学に向かった……つもりだったのだけど。 先生に資料を手渡し、近況について二言三言言葉を交わしたり、ちょっとばかり怒られたりしている間に、気がつけば外は赤みがかり。 ついには電気をつけなければ辺りが見渡せないほど、暗くなってしまった。 「ねえ」 照明を付けに、椅子を立った先生が、ふと思いついたように言った。 パチッと目立たない音がした後、徐々に部屋の中が明るくなる。 「黒川と月山抜きでも良い?」 「はい」 先生のデスクに座って、持ってきた資料とにらめっこをしていたわたしは、うわの空で返事をする。 それから、ようやくその意味を計りかね、「……って何がですか?」と顔を上げた。 「夕食。後で月山あたりに怒られそうだけど、今から誘うのも大変でしょう?」 「えーと」 「たまには、二人で食べに行くのもいいかと思ってね。……まあ、嫌って言うなら無理にとは言わないけど」 ぽかん、としてしまうその先で、振り向いた先生が悪戯っぽく笑う。 今までひとまとめにしていた髪をはらりとほどいて「ま、考えといて」と続ける。 月山さんと栄子さんと杉先生と、わたし。 刑事と監察医と、大学の副教授。 まるっきり同僚というわけでもないのに、よく仕事が一緒になるから、なんとなく一緒に夕食を食べに行く仲だ。 もちろん、わたしは同じ職場の栄子さんと二人で行くことも多いし、検案帰りに月山さんと行くことも少なからずあるのだけれど、杉先生と二人っていうのは――あまり無いかも。全く、というわけでは無いにしろ。 そんなわけだから、先生の言葉には一瞬、頭の中が整理しきれなくて。 「嫌じゃ、ないです」 状況が理解できたときには、声に出すのよりも早く、次の瞬間には、がたっと椅子から立っていた。 もう一度、落ち着いて――そう思ったはずも声は自然と、「嫌じゃないです。行きます!」と元気が有り余ったように返し、「そんなに強く言わなくても分かるわよ」と笑われてしまった。 そんなことがあって、準備するから待っていてという先生の言葉通りにわたしは大学の外でしばらく待っていて――今に至るというわけだ。 春のにおいが鼻をかすめる。生き生きとした若葉と、力溢れる土のにおい。 前を行く先生との距離はそのままに、鞄を後ろ手に持って、わたしはのんびり背中を追う。 「もう春ですよねぇ」 まだ冬の気配が残るものの、肌を触れる空気は確実に春のそれに近く、気持ちが良い。 だからといって思ったままのことを口に出してしまうのは、わたしの良くも悪くも癖なのかもしれない。 なあに? と言いたげに、歩を止めて杉先生が振り返る。 「あ、ほら……この間まで、結構寒かったじゃないですか。コートも着て、マフラーも付けてって感じだったし……なのに、もう春なんだなって」 今はもうすっかりコートも薄くなって、マフラーも要らない日が増えて。 確実に、一日一日冬が去って、春がやってきているのを実感する。 「あ、これ桜の木だ」 ふと、辺りを見渡していると、それは暗闇の中街灯に照らされて静かに浮かびあがっていた。 そんなに目立つわけではないのに、吸い込まれるように視線がいく。 「まだ、咲いてないなぁ」 ふくらんだつぼみが、今か今かと、人々にその姿を見せるのを待っているかのように。 思わず木の近くに寄って、下から見上げてそう呟く。 春になったら、お花見をするのもいいかもしれない。医務院のみんなと、先生と、それから月山さんと森田さんを誘って。 「桜が咲くと、わくわくしますよね」 後ろで佇む先生の方へと振り返り、頬を緩める。 花見の様子を思い浮かべると、ますます春と、桜が楽しみになる。 「そう?」 そこで、人の期待を完全否定し、全く同調する様子を見せないのはいつものこと――かもしれない。 先生の口調は、あっさりと、さっぱりと、あなたって本当によく分からないって感じ。 最初に会ったときから変わらない、その表情。 だからここで「そうですよ」と言い返してしまうのも、やっぱりいつものこと、かもしれない。 「春って色々あるじゃないですか。新しい職場に入ったり、気持ちが一新するというか。あと、初めての人との出会いっていうのも」 これから何が起きるのだろう。先が分からないのは、不安もあるのと同時に期待も大きい。 春とそれにまつわる思いには、その不安と期待の入り混じったような気持ちが付きまとう。 それでも、大きな期待を寄せずにはいられない。何か、心躍らされることが起きるのを。 「そういうのって、わくわくしませんか?」 「そうかしら」 コートのポケットを探り、煙草を取り出した先生の口から出るのは、否定の一言。 それに火を付けて、明るくなる一瞬、悪戯っぽい笑みが見えた。 「分かってる? 出会いがあるってことは、別れもあるということよ」 「……へ?」 「誰かと出会うということは、他の誰かと別れるということ。その人とは、もう二度と会えないかもしれない」 ふんわり、と白い煙が諦めのように辺りに漂う。 「違う?」 杉先生はそれだけ言うと、またゆったりと歩みを進める。 違う? と口では言っていたけど、きっと先生にしたらそれは、「そういうことでしょ」と肯定しているのと同じだ。 先生が言うと、そうなのかもしれないって思う。でも、そんなの――悲しすぎる。 わたしも、急いで隣に並び歩き出す。 太陽は影を落とし、すっかりと暗い夜道。わたしはじっと、下を向いて考える。 春は、出会いの季節とばかり思っていた。新しい出会いに期待し、胸躍らせる季節だと。 でも、別れもあるのだ。……そう、そうだ。卒業式には、桜が咲いていたことだってある。 出会いと同時に、別れの季節でもある。それは間違いないことなんだ。 「……確かに、そうなのかもしれないですけど」 顔を上げ、隣にいる先生を見上げて、わたしは口を開く。 「でも、絶対ってことは無いと思います。だって、別れたからといって、絶対、もう二度と会えないってわけじゃないじゃないですか。それに……なんていうか、別れるというより出会いを増やす」 そう、思いますから。 前を向いて、この先歩いていく道をしっかりと見つめる。 この道を歩いていったら、もうここには戻ってこられないだろうか。 この道を通っていた今のことは、忘れてしまうだろうか。 きっと、そんなことは無いと思う。 今、この道を歩いているということ。 それは確かに、わたしの経験となる。 別れたからといって、無くなってしまうわけじゃないんだ。 意を決したように、もう一度。先生の方を見上げる。何を言われるか、ちょっとだけ畏れ多いような気持ちを、どこかに感じながらも。 「……そうね。そう思いたいわね」 前を向いたまま、ふっと口を緩める。 ……あれ? 一瞬感じた違和感。 長い髪に隠れたその先生の横顔が、なんだか無性に、寂しかった。 なんの根拠もないし、「あなたは人の気持ちが読めるとでも思っているわけ?」と言われてしまえば、思いっきり首を横に振って否定しなければいけない。 でも、それでも、その瞬間、わたしには確かにそう見えた。 先生は――先生は、何度も、別れを経験しているのだ。わたしよりも、ずっとずっと。 「なに?」 じっと、そんなことをひたすら考えながら、ぼーっと見ていたものだから、不思議そうな顔で尋ねられた。 先生は、わたしよりもずっと別れを経験しているのだ。 もしわたしだったらどうだろう。 それでも、別れには目を向けず、この先に待つ出会いにだけ胸躍らせることができるだろうか。 ぎゅっと小さく、でも強く。先生の袖を掴む。 「今年は、わたし……先生に叱られないように頑張りますから」 「え?」 脈絡の無い言葉に、ますます困惑した表情が見えた。 「ちょっとなによ、いきなり」 わたしは、急に先生から離れたりしないですから。 いきなり別れて、二度と会えないなんて、そんなこと、絶対にしませんから。 本当に言いたい言葉は、心の中をめぐって消える。 きっとそんなことを言ったら、馬鹿にされるだろう。 勝手に何を言いだすかと、思いきり呆れられるかもしれない。 「だから、その、なんていうか……」 下を向いて、言葉にもならない言葉をつむぎ、言いあぐねる。 こんなのわたしの勝手な思いだということは、よく分かっている。 でも、先生が寂しい思いをするなんて、絶対に嫌。 ふたつの気持ちが頭の中でぶつかり、適当な言葉が出てくるのを一層邪魔するような気持ちがする。 そんなわたしの様子に、いい加減先生は痺れを切らしたらしい。 「気持ち悪いねえ」 「なっ……!」 むっすりとした表情を返すと、にやりと笑われて。 「そんな、そんな言い方無いじゃないですかぁ」 わたしが思いっきり睨んで言い返すと、上から余裕の笑みを見せ付けられる。 ますますむっとすると、いかにも楽しそうに、先生は小さく笑っていた。 「ねえ天野」 「はい」 「春になったら、お花見もいいわね」 なんということなく、そう言い出した先生に。 「え?」と驚く表情を隠しきれず、わたしが思わず歩みを止めると。 「って――月山紀子が言ってたわよ」 いたって真顔で、杉先生はそう返す。 この春、どんな出会いがあるのだろう。わたしたちには、一体どんな出会いが待っているのだろう。 思い切り深呼吸をすると、生き生きとした木々の匂いで胸がいっぱいになった。 *end* 天野と杉先生は一度書いてみたかった組み合わせです。 そのわりに何だかよく分からないことになってしまったんですが。笑 この二人ってネット回ると色々見かけるんですが、この程度でもなんだかなぁって人はごめんなさい。 ビデオデッキが壊れてビデオが見返せないから口調もよく分からないしなぁ(^^;) 2007.03.12 |
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